信州小諸から

信州小諸から感じたこと、思ったことなどお伝えします。

災害伝承碑などについて考える

3月1日発行の「ツナグ」第19号掲載の原稿

東御市田中の薬師堂境内に昭和16年8月1日に建立された戌の満水200年供養塔

東御市田中の薬師堂境内に平成3年8月1日に建立された戌の満水250年供養塔


 今年2024年の元日、地区の新年会を終えて、家でゆっくりしていたら、突然スマホの警報音が一斉に鳴り、大きな長い揺れを感じた。能登地震だった。災害にはお正月は関係ないと認識させられた。

 長野県の東の佐久地域では、毎年8月1日にお墓の掃除をし、お墓参りをする。南佐久では休みになる会社も多い。これは1742(寛保2)年旧暦8月1日に千曲川流域を襲った台風による大水害で亡くなった約2800人を慰霊する風習が新暦に引き継がれていると言われている。もっとも、この頃は、8月1日前の土日にお墓参りする家も多く、災害の慰霊の意味は薄れてきているように思う。

 この頃読んだ失敗学畑村洋太郎さんの『老いの失敗学』の中に「忘れることの悪さとよさ」という項があり、「忘れることの悪さは、大事な教訓がなくなってしまうことです。それによって大きな失敗を引き寄せてしまうことがよくあるのです。」「組織や地域の記憶は、活動記録として保存されるものもあるので、さすがに数年程度で大きく変化することはありません。それでも組織で「三〇年」、地域では「六〇年」くらいすると大事な教訓も含めて忘れられていきます。」「人の入れ替わりによる記憶の減衰が起こることも要因です。もっというと文書化されたり文化になっているものでも、「三〇〇年」くらいで消えてしまいます。下手をすると「なかったこと」にされてしまうことがあります。」

との記述があった。

 戌の満水の慰霊碑などは、国土地理院地図に「自然災害伝承碑」として書き込まれるようになったが、実際の碑は、風化により文字が読めなくなっていたり、漢文だったりして、説明板がないと内容が判らず伝承の役目を果していないものも多くある。

 大阪市浪速区の大正橋東詰にある安政2年(1855年)7月建立の安政津波碑「大地震両川口津波記」の横にある説明板には、石碑の原文とともに現代文で「津波の勢いは、普通の高潮とは違うということを、今回被災した人々はよくわかっているが、十分心得ておきなさい。犠牲になられた方々のご冥福を祈り、つたない文章であるがここに記録しておくので、心ある人は時々碑文が読みやすいよう墨を入れ、伝えていってほしい。」という趣旨のことが書かれているという。そして、地域の人たちは毎年供養の時に碑文に一文字ずつ墨入れし、災害の記憶と教訓を引き継いでいるとのこと。災害のことが人々からも地域からも忘れ去られ、無かったことにならないようにするために、浪速区の碑のような記憶と記録をつないで行く仕組みを作らないといけないのではと思う。災害とはちょっと違うが、諏訪大社の7年ごとの御柱祭伊勢神宮の20年ごとの式年遷宮、或いは60年ごとの庚申塔の建立など、記憶と記録を継いでいくための先人の知恵だと思う。

 戦没者慰霊のことになるが、岩手県北上市で、戦死した一人息子が生きた証として建てたお墓の前で、建立した女性が亡くなったあとも、墓前で、40年間「千三忌」が続いているという。人目に触れる県道脇に建て、息子のことを忘れて欲しくないという母の思いが千三忌に集う女性たちに繋がっている。

 一方、群馬県では、高崎市の県立公園内に設置された朝鮮人追悼碑が、今年1月末に代執行で撤去されたという報道があった。群馬県内では、中之条町で、かつて公職追放になった人たちが自戒と反省を表明して建てた「おろかもの之碑」のネーミングに反発がでて、離れたところに移転したという。

 時代が変わり、歴史的な事実を、忘れたい人、無かったことにしたい人など、建立時と歴史観が異なる人たちが多くなると、記憶を記録する「碑」は存在してはいけないものとされてしまう。(占領下で多くの忠魂碑が撤去されたもの同じですね。)

 歴史観の違いとかではなくても、道路拡張等で、文化財に指定されていない路傍の庚申塔などの石仏や古い道標などが撤去されることも多い。地域の人たちからも忘れられて、「無価値」な石として処理されることは寂しい。

 ともあれ、自然災害の伝承碑は、碑と共に碑に込められた先人の思いが伝わるように、戦没者等慰霊碑など戦争記念物は、時代や考え方が変わってもその存在を消さないように、そして、路傍の古い石仏も守ろうという気概を地域で持ち続けるにしたいものである。

 参考

朝日新聞出版 最新刊行物:新書:老いの失敗学畑村洋太郎著 朝日新書

大阪市浪速区:「安政大津波」の碑 (浪速区情報>区内の名所・旧跡)

岩手・北上 路傍の墓に宿る意志 | NHK

戦争協力を自戒 群馬・中之条に残る「おろかもの之碑」 公職追放経験者が61年前建立 静かに思い伝える:東京新聞 TOKYO Web

龍野咲人

自分の卒業した芦原中学校の校歌の作詞者 龍野咲人さんのことは、当然のことながら中学生時代には知らなかった。

自分の子どもが通った水明小学校(自分が卒業した大里小学校から新築、通学区変更を機に改称)の校歌の作詞者が龍野咲人さんだった。

そこから調べると近隣の小中高の校歌を数多く作詞していた。

この地元の詩人のこともっと知るべきだった。

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明治 44 年~昭和 59 年(1911~1984
明治 44 年小県郡川辺村築地(現上田市築地)に生まれる。
本名 大久保幸雄。



地元の校歌の作詞も多く手がけている。

小諸市立芦原中学校校歌
小諸市立美南ガ丘小学校校歌
小諸市立水明小学校校歌
長野県小諸高等学校校歌
佐久市立平根小学校校歌
上田市立丸子北小学校校歌
山ノ内町立東小学校校歌


 上田市ホームページより https://www.city.ueda.nagano.jp/uploaded/attachment/13662.pdf

 

http://www.d-commons.net/uedagaku/detail.php?id=2775&fbclid=IwAR0lZSm6Dvm_tNWa5fjMveUER6pBMUmgvnJ80OmhOzpBm7nTWi91nPrllSU

 

https://scrapbox.io/iine-komoro/%E9%BE%8D%E9%87%8E%E5%92%B2%E4%BA%BA

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水明小学校校歌

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芦原中学校校歌

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美南ガ丘小学校校歌

 

地域の歴史を見直し、先人の労苦を思い起こす

菱野区の旧公民館に掲げられていた共有土地維持略歴
 ・明治維新により地域の共有林が国有林編入されたこと、
 ・図面作成の請負手となった区民が請負人の立場ではあったが、村民の利益を失うことに異を唱えたこと、
 ・国の官吏との折衝に苦労してほぼ主張が認められたこと、
 ・菱野区後平区の名義で登記できず、六人の共有名義としたこと、
 ・1932年(昭和7)産業組合法が改正され昭和8年農事実行組合が組織されるに当たり、その名義としたこと、
 ・菱野公会堂(旧公民館)新築に当たり、共有林からの材木を使ったこと、
 ・将来に向かって愛郷の念が益々高まることを祈っていること
 がわかる。

〇公民館が建て替えられ、便利になりましたが、区の歴史が伝わりにくくなったところもあると思います。
現公民館のどこかに現代文にして掲示して欲しいと思います。

〇今年から山の手入れが区民出動でなく、業者委託となりましたが、昔からの区民の権利を守ろうとした先人の苦労を決して忘れてはいけないですね。

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『菱野区誌』より

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『菱野区誌』より





大里村大字菱平字宇坪入 一四六八番イ号
              外七筆

一、山林三十五町八反弐畝二十五歩菱平農事組合所有地

 右土地往古八五ヶ村(大里村)内野ト称シ開拓シ得ベキ権利アリシ土地アリシヲ、天保年間小諸藩主牧野候其一部ニ植林ナシ廃藩当時本村ヘ返還セラレタリ、続テ地券調整事業トナルヤ、藩主植林セシ場所ノミヲ認メラレ其他ハ国有ニ没収セラレ降テ明治二十二年実測地圖(現在圖)調製挙アルヤ花岡武市 土屋袈裟平 桜井善小 西森常次郎四氏請負手トナリ地圖調整ヲナシタリ
 請負事業ナリシモ自村ノ土地調査ヲナスモノナレバ愛村ノ念慮上該地往古ノ利権ヲ没却セシヲ時ノ理事者常設委員依田菊蔵 桜井忠蔵 花岡武市(兼製圖者)ト協議シ往古ノ境界ニ準拠シ調整シオキタリ明治三十五年官民境界査定ノ挙アルヤ其企画者タル土屋袈裟平惣代人トナリ 立合タル官吏ノ査定線ト我圖面トガ大ナル相違ヲ来シ査定官ハ改租当時ノ地圖 面積 地勢等ヲ強張シ互ニ相譲ラズ行政訴訟ノ止ムナキニ至リタレバ遂ニ査定中止スルニ至リタリ是ニ於テ当時ノ理事者ト協議シ証拠書類ヲ整備シ数月ノ后再ビ査定ヲ続行 悪戦苦闘弁明ニ勉メ遂ニ行訴ヲ避ケ主張ノ大半ヲ占ムルニ至レリ 官民有境界ノ査定ハ完了ヲ告ゲ地圖訂正ヲナスニ当リ滝原 諸ノ両区ト各近距ノ便宜地ヲ交換シ其余ハ学校基本林トナシタルコトハ現在ノ通リナリ、明治四十四年以前ハ菱野、後平ノ共有林ノ名義ナリシヲ統規上部落有財産ヲ認メラレズ為ニ村有ニ統一スルノ止ムナキニ至レリ 去スレバ旧来ノ習慣上ヨリ不便少ナカラズヤ必セリ依テ仝年四月左ノ六氏ノ名義ヲ借リ今日迄維持シ来レリ 桜井忠蔵 依田菊蔵 花岡武市 桜井類蔵 土屋弥升 尾沼藤作 昭和八年十二月菱平農事実行組合創設ニ際シ地主諸氏ニ快諾ヲ得部落有土地一式ヲ組合名義ニ書換ヲ了シタリ 現時農村ノ更正ハ時運ニ促サレ統制完備スルニ非ザレバ社会ノ進運ニ並行スル能ハズ茲ニ公会堂新築ノ議成リ基礎材料ハ共有林ヨリ不足分ハ国有林ヨリ払下ゲヲ受ケ費用ハ名義者ヨリ卒先ノ寄附金ヲ基本トシテ全区民ニ百余名ノ協力ニ依リ其ノ完成ヲ告ゲ即チ愛郷心ニ富メル前記共有林維持者ヲ懐古スルト共ニ現時ノ組合員団結ノ鞏固ナルヲ喜ビ将来益々組合員ノ意志統合ヲ以テ愛郷ノ念愈弥々高カランコトヲ望ム。公会堂ノ落成ヲ記念トシ茲ニ之ヲ掲グ

 昭和九年五月拾日
     区長
     菱平農事実行組合長 漆原勝衛

http://www.d-commons.net/uedagaku/detail.php?id=2730

【もろもろ小諸】臼田橋の由来

【もろもろ小諸】臼田橋の由来

本町から相生町に抜ける「おふらや小路」、松井川に架かる「臼田橋」は個人で開道、架橋された。小諸商人の心意気と力を感じる。由来がレストラン車留夢の入口に掲げられている。

「おふらや新道と臼田橋の由来

明治二十一年信越線が開通した頃は小諸驛へ直行する主要道路がなく、

本町方面から停車場への往来は現在の東電前からパリの湯前を経て筒井町へ抜ける迂回路に頼っていた。

因って明治三十六年当時本町在住の呉服太物商臼田彦五郎義敬が、菱野、六供、本町地区から停車場への交通の便を図るため私有地を開鑿(かいさく)して本町より現在の相生町への開道と中間を流れる松井川への架橋を計画したが、たまたま日露両国の開戦により延計し開道と架橋の完成は明治四十四年七月、道路はおふらや新道 架橋は臼田橋と名づけられて私道として漸く竣工した。

 この橋と欄干は以来 幾星霜の洪害にも耐えて来て大正時代を迎えると町並は繭糸業隆昌殷賑を窮めてこの橋を荷馬車や貨物自動車の往来すること頻繁となり奔走する荷馬車の車輪に激突されて欄干の損傷することも屡々(しばしば)、修復費もまた巨額に及んだ。

 下って昭和初期の不況が到来するや道路および橋梁も漸くその傷みが甚だしく修復維持の困難なるため当市へ寄進し現在は市道編入管理されている。

 橋の欄干擬宝珠は京都五条大橋のものを象りて作成された臼田橋架設の初代のもので当時としては雅趣あるもので、あったが損傷による橋梁掛け替えに当り小諸市から記念品として返還され現在はレストラン車留夢の庭に展示されている。」

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レストラン車留夢の玄関わきに設置されている古い臼田橋の擬宝珠




www.d-commons.net

読書メモ『トラクターの世界史』 藤原辰史 中公新書

ラクターが農業のみならず、世界を変えてきたことにびっくり。
自分のような自給的農家でも農地を維持していくためには損得に関わらずトラクターを購入せざるを得ない。
現在の勤め人が多い農村では、共同利用は難しいので。個人が機械をそろえるとそれが共同作業を減らしていく、とどんどん共同作業が無くなり、かつてのような農村ではない。

FixMyStreet Japan

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「公務員だけじゃない
 いつでも誰でも
 自分の町を
 良くできる」

というキャッチフレーズのとおり

地域・街の課題をスマホで解決
FixMyStreet Japan - まちもん は市民と行政が協力し、道路の破損、落書き、街灯の故障、不法投棄などの地域・街の課題をスマホを使って解決・共有していくための仕組みです。

これを活かすには、行政始め多くの人が使い、課題を見える化し、その課題を解決する努力をしないと、ただアップするだけになってします。

なぜか長野県内ではあまり使われていない。

https://www.fixmystreet.jp/cities/20208

20180621 環境水道部職員の皆さんへ 豊かな暮らし

環境水道部職員の皆さんへ

おはようございます。土屋です。

昨日一昨日は6月議会の委員会対応お疲れさまでした。

今議会では環境水道部への質問通告はなく、提案議案も2本で当部にとっては静かな議会でした。一般質問や委員会での質疑への対応は大変ですが、過去の経過を調べたり、周辺市町村の状況を調べたりと勉強になります。また理事者との答弁書の打ち合わせも理事者の考えを知る貴重な機会だと思います。

さて、先週末佐久市内で開催されたpeace coinという仮想通貨を地域通貨として使うということについての学習会に個人的に参加したのですが、そこで普段意識していない、貨幣の役割や「暮らしの質」を何で測るのか、ということに対して考えました。
貨幣は「豊かさ」の尺度ではありますが、そもそも「豊かさ」とは何かということが定義しにくいです。

 当日の講師の言葉では

「今日も明日も同じ暮らしが続くこと」
「「私の幸せと他人の幸せ」「平穏と刺激」「ヴィジョナリーと現実」「抽象と具体」のバランスがとれていること」
「余裕と生きがい」
「ありがとうの連鎖」
というものでした。

よく、「地域の活性化」と口にされますが、それが何を意味しているのか共通の理解がないとそれぞれ違う方向に進んでしまうように思います。

浅間山麓の水に恵まれている小諸市の環境に感謝して、自分の仕事が「豊かな」暮らしつくりにつながっているか、見つめなおす必要を感じました。

 梅雨らしい天気ですが、雨の日には雨の中を、風の日には風の中をで過ごしましょう。