信州小諸から

信州小諸から感じたこと、思ったことなどお伝えします。

小諸で動き出したコモロ史プロジェクト

コモロ史プロジェクト

 

コモロ史プロジェクトは、小諸市に移住した田中拓斗がまとめ役となり、2026年に始まった、小諸に暮らす人々の「生活史」を聞き取り、記録していく活動。

 

小諸の歴史を、城や寺社、歴史上の人物、大きな出来事だけでなく、そこで暮らす一人ひとりの人生から見つめ直そうとしている。

 

人の人生から小諸の歴史を見つめる

 

「コモロ史」という名前からは、小諸城や武家、歴史上の人物、古文書などを調べる活動を想像するかもしれない。

 

しかし、このプロジェクトが記録しようとしているのは、それだけではない。

 

プロジェクトの出発点にあるのは、「いま、小諸に暮らす『ふつう』の人たちを詳しく知りたい」という思いである。

 

懐古園や布引観音、浅間山、千曲川、島崎藤村など、小諸には広く知られた歴史や自然、文化がある。一方で、そこで暮らす人々がどのような日々を送り、何を悲しみ、何を喜び、どのような人生を歩んできたのかについては、十分に記録されているとは限らない。

 

農業を営んできた人、商店で働いてきた人、会社や工場に勤めてきた人、家族を育ててきた人、地域の役や行事を担ってきた人。そうした一人ひとりの人生のなかにも、小諸の暮らしの歴史がある。

 

コモロ史プロジェクトは、これまで歴史の表舞台に登場しにくかった人々の語りを記録することで、小諸のもう一つの歴史を残そうとする取り組みである。

 

小諸に移住してきた人が始める「コモロ史」

 

田中拓斗は1997年、山梨県甲府市生まれ。甲府第一高等学校を卒業し、2026年5月に東京から小諸へ移住した。電力系コンサルタントとして働く一方、生活史の制作などにも取り組んでいる。

 

祖父への聞き書きをきっかけに、2024年から会社員の傍らで聞き書き活動を始め、活動開始から約1年間で、およそ80人の人生に耳を傾けたという。

 

小諸に暮らし始めたばかりの人だからこそ見えるものがある。長く住んでいる人にとっては当たり前の風景や習慣も、移住者の目には新鮮に映る。

 

一方、地域の人の話を聞くことで、聞き手自身も小諸の歴史や暮らしを知っていく。

 

「コモロ史」は、外から地域を調べるだけの活動ではない。小諸に暮らす人々と出会い、その語りを通じて、聞き手もまた地域を知っていく活動でもある。

 

生活史とは

 

生活史とは、一人の人間の人生について、その生い立ちやこれまでの歩み、現在の暮らしなどを語ったものである。

 

社会学者の岸政彦は、著書『生活史の方法』で、個人的でささやかな人生の語りのなかにも、この世のさまざまな幸せや不幸、喜びや苦悩、成功や失敗が含まれていることを示している。

 

生活史で大切なのは、出来事を年表のように並べることだけではない。その人が何を経験し、そのとき何を感じ、どのように考えて生きてきたのかに耳を傾けることである。

 

自分とは異なる生き方や考え方に出会ったとき、すぐに相手を評価したり、理解できないと決めつけたりするのではなく、その人なりの事情や背景を想像してみる。生活史には、そうした他者への想像力や共感を育む可能性がある。

 

コモロ史プロジェクトは、こうした生活史の考え方をもとに、小諸の人々の人生を記録していく。

 

聞き手と語り手

 

プロジェクトでは、聞き手を募り、聞き手が自ら選んだ語り手から人生の話を聞き取る。

 

語り手は、小諸に住んでいる人や、小諸で働いている人など。家族や友人、知人をはじめ、これまでじっくり話を聞いてみたいと思っていた人も対象となる。

 

話のテーマは、子どものころの思い出、仕事、家族、結婚、趣味、日々の暮らしなど、幅広い。特定の分野や、地域活動への参加経験が必要なわけではない。

 

説明会資料では、「50人が語り、50人が聞く」ことが目標として掲げられている。

 

聞き手に求められるのは、用意した質問を順番に尋ねることだけではない。語り手が話したいことを尊重し、その人の言葉に耳を傾ける姿勢が大切にされている。

 

聞き取りの方法

 

聞き取りは、語り手との対話を通じて行う。説明会資料では、聞き取りにあたって、次のようなポイントが紹介されている。

 

- 相手の話を遮らず、受け止めながら聴く。

- 出来事の事実だけでなく、そのときの気持ちや状況にも耳を傾ける。

- 「何があったか」だけでなく、「どのように感じたか」を尋ねてみる。

- 沈黙を恐れず、相手が考えをまとめる時間を大切にする。

- 話したくないことを無理に尋ねず、語り手の意思を尊重する。

 

聞き取りは、相手から情報を引き出すための調査というよりも、その人の人生を知ろうとする対話である。

 

説明会資料では、聞き取りの時間は1〜2時間程度を目安としている。

 

聞き書きによって記録する

 

聞き取った話は、録音などをもとに文字に起こし、文章として編集する。このように、人の話を聞き、その人の言葉を生かして記録する方法を「聞き書き」という。

 

聞き書きでは、聞き手が自分の解釈や評価を加えて、語り手の人生を一方的に説明することを避ける。語り手本人の言葉や語り口をできるだけ生かし、その人の経験や人柄が伝わる文章に整えていく。

 

説明会資料で示された原稿作成の手順は、次のとおり。

 

1. 聞き取った内容を文字に起こす。

2. 内容を整理し、必要な部分を選んで編集する。

3. 語りの流れが伝わるように文章を整える。

4. 語り手本人に原稿を確認してもらい、了承を得る。

 

原稿は一人あたり3,000字以内を目安とし、語り手の意向を尊重して仕上げる。実名での掲載や写真の使用についても本人の意向を確認し、匿名での掲載も可能としている。

 

聞き手が自分の文章を発表することよりも、語り手の人生を丁寧に受け止め、その人の言葉を記録として残すことが重視されている。

 

形に残すこと、人と人をつなげること

 

コモロ史プロジェクトが目指すのは、人生の語りを形に残すことと、語りを通じて人と人とのつながりをつくることである。

 

説明会資料では、集めた生活史を紙媒体や電子媒体で出版する構想が紹介されている。また、刊行物を公共機関に寄贈し、長野県立図書館で郷土資料として所蔵してもらうことも予定として示されている。

 

生活史を読む人は、語り手や聞き手だけではない。自分とは異なる年代や立場、経験を持つ人の人生を知ることで、読み手もまた小諸に暮らす人々への理解を深めることができる。

 

一人の人生の記録は、個人の思い出にとどまらず、時代や地域の暮らしを知るための資料にもなる。

 

記憶を集めることは、未来の地域資料をつくること

 

今日の小諸で語られる何気ない話も、10年、50年、100年後には貴重な地域資料になるかもしれない。

 

過去の暮らしを知るために、私たちは古文書や写真、新聞記事などを探す。しかし、そこに記録された出来事だけでは、その時代を生きた人々が何を考え、どのように暮らしていたのかを十分に知ることは難しい。

 

「そのころ、小諸の人はどんな暮らしをしていたのか」

「何を大切にしていたのか」

「地域の人たちは、どんなことを考えていたのか」

 

そうした問いに答えるためには、今を生きる人々の声を記録しておくことも必要である。

 

コモロ史プロジェクトは、現在の小諸の人々の語りを未来へ手渡す、生活史による地域アーカイブの試みといえる。

 

LocalWiki小諸との接点

 

LocalWiki小諸も、小諸について知っている人が、それぞれの知識や経験を持ち寄り、地域の記録をつくっていく場である。

 

コモロ史プロジェクトによって集められた生活史は、一人の人生の記録であると同時に、小諸という地域を知るための資料にもなり得る。

 

例えば、一人の人の語りから、かつて働いていた場所、地域の行事、道や用水路、商店、学校などの記憶が明らかになることがある。そうした記憶を、本人の同意を得ながら関連する場所や出来事の記録と結びつけていけば、個人の人生から地域の歴史をたどることもできる。

 

一人の人生、一つの記憶、一つの場所、一つの出来事。それぞれの小さな記録を積み重ねていくことで、これまで見えなかった小諸の姿が浮かび上がってくるかもしれない。

 

関連リンク

 

- "コモロ史プロジェクト公式サイト" (https://www.komoroshiproject.com/)

- "田中拓斗|note" (https://note.com/)

- 小諸日記

- 生活史

- 地域アーカイブ

- 聞き書き

 

関連項目

 

- 小諸市

- 小諸の歴史

- 地域資料

- 地域アーカイブ

- 生活史

- 聞き書き

- 移住

布引観音(釈尊寺)参道の丁石:断崖の古刹へ祈りを繋ぐ石標

■ 概要

「牛にひかれて善光寺参り」の伝説で全国に知られる小諸の古刹・布引観音(釈尊寺)。千曲川の断崖絶壁に佇む観音堂へと続く厳しい岩場の参道沿いには、往時の参拝者を導き、道中の安全を祈って建てられた**「丁石(町石・石造標識)」**が静かに佇んでいます。 浅間山小諸登山道の丁石とともに、小諸特有の厳しい自然地形(田切・断崖)と先人たちの篤い信仰心が融合した貴重な近代化・信仰遺産です。


■ 歴史と背景:巨岩と断崖に刻まれた巡礼の道

布引観音(釈尊寺)は、千曲川を眼下に見下ろす切り立った岩壁の洞窟に観音堂が建立された、全国でも極めて珍しい懸崖造り(崖構造)の山寺です。 江戸時代から明治・大正期にかけて、全国から善光寺参りや観音信仰の参拝客が訪れました。麓の登り口から本堂・観音堂に至る急勾配の山道(参道)は、巨岩や奇岩が迫る険路であり、参拝者が迷わず安全に登れるよう、寄進によって「一丁(約109m)」ごとに丁石が設置されました。


■ 浅間登山道丁石との対比と連携(二大石造物トレイル)

2024年に刊行された田村正勝氏の著書『参道に苔むす丁石他(甲信越編)』(銀河書籍)では、浅間山小諸登山道の丁石とともに、この布引観音参道の丁石群が詳細に実地調査されています。

  • 浅間山小諸登山道(大正9年): 見知らぬ登山者の無事と安全を願った「民間の篤志・近代登山案内」の標識。
  • 布引観音参道: 霊場・観音堂を目指す参拝者の安全と祈願を込めた「信仰と巡礼」の標識。

いずれも、小諸特有の高低差や急坂という地形の中で、「会ったこともない他人の無事を願う」先人たちの温かい思いが石に刻まれている点で深く響き合っています。


■ 現代における課題と「記憶の記録」

参道周辺は急峻な地形で崖崩れや落石の危険と隣り合わせであり、道路改修や自然風化の中で、一部の丁石は位置が動いたり摩耗・失われたりしています。

田村正勝氏が提言するように、これらの石造物を守る最大の保護策は**「行政や地域住民、そして訪れる旅人がその所在と価値を知り、関心を持つこと」**です。参道を歩く一人ひとりが足元の石標に目を向け、写真や記録を残すことが、大切な地域資産の未来への継承に繋がります。


■ 関連ページ・相互リンク


🙋‍♂️ あなたの「記憶」を教えてください(LocalWiki参加の問い)

このページでは、布引観音参道の石造物や参道歩きの思い出・情報を募集しています。

  • 🧗 参拝やハイキングの体験談: 「参道途中で見かけた珍しい石仏や丁石の写真がある」「参道を登ったときのエピソード」など、ぜひお寄せください。
  • 📸 昔の参道や布引観音の写真: 昭和・平成初期の参道整備前の風景や、お祭り・参拝の様子の写真があればコメントや画像をお寄せください!【断崖の古刹へ 祈りと安全を繋ぐ石標】

     

    【断崖の古刹へ 祈りと安全を繋ぐ石標】

     

    布引観音(釈尊寺)参道 丁石(町石)探索ミニガイドnunobiki_choseki_mini_guide.docx

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百姓と大地は無限の力

浪合村(現・阿智村浪合地区)のトンキラ農園の食事をする建物の中に掲げられていた額に記されていた言葉。
「百姓と大地は無限の力」
浪合村には、ずいぶん前に、小諸市区長会と農業振興審議会の視察研修で訪れたことがある。また、自治体学会金沢大会の帰路に開かれた、内山節さんの話を聞くフォーラムでも訪れた。数えてみると、これまでに3回訪れていることになる。
この言葉を初めて見たときから、ずっと印象に残っていた。
そこには、農民の誇りと、大地や自然への感謝、畏敬、礼賛の気持ちが込められているように感じたからである。
今改めて考えてみると、もう少し深い意味があるのではないかと思う。
「百姓」と「大地」は、単純に二つの力を並べているのではない。
「百姓」もまた「大地の力」の一部なのではないか。
百姓は、大地を支配する人ではなく、大地とともに生き、大地の持つ力を引き出す人。
そう考えると、
「百姓の力+大地の力」
という足し算ではなく、
人間の営みと自然の力が響き合うところに、無限の力が生まれる。
そんな言葉にも見えてくる。
そして、この言葉は農業だけのことではないのではないか。
教育にも、地域づくりにも当てはまるように思う。
「地域をつくる」と言っても、今いる人たちがゼロから地域を「つくる」のではない。
そこにはすでに、大地、歴史、暮らし、記憶、人間関係など、まだ十分に生かされていない「眠っている力」がある。
それを見つけ、つなぎ、耕していく。
そう考えると、
「百姓と大地は無限の力」
→「地域にも、まだ見えていない無限の力がある」
というふうにも読み替えられる。
2016年の長野県の「南信州お散歩日和」には、高橋寛治さんが、トンキラ農園の歩みについて書いた文章が紹介されている。
それによれば、昭和62年(1987年)、村中の人が集まって「村づくり計画」を議論し、それまでの「観光立村」から「教育立村」を目指すことになった。そして、村民一人ひとりが村に住み続ける意味を確認する場として生まれたのがトンキラ農園だったという。
また、そこには「自分たちが主人公となって生き生きと魅力的に生きれば、そこに自ずと交流が生まれ、人を感動させることができるのではないか」という考えがあったと紹介されている。
そうしたトンキラ農園の歩みを知ると、「百姓と大地は無限の力」という言葉が、単なる農業の標語ではなく、人と土地の力を信じる言葉として掲げられていたようにも思えてくる。
当時の浪合村で、こうした農業観や地域観がどのように生まれ、誰によってこの言葉が掲げられたのか。
そして、その思想や実践は、現在の浪合地区にどのように受け継がれているのだろうか。
機会があれば、もう一度トンキラ農園を訪ね、この言葉の「その後」を確かめてみたい。

新緑の「トンキラ農園」で舌鼓!! | 南信州お散歩日和

小諸の街は「浅間山へ羽ばたく鳥」だった?――専門家が分析する城下町の美的感性

私たちが日々歩いている小諸の坂道や街並み。実はそれ自体が、一つの大きな「芸術作品」として設計されていたとしたら、ワクワクしませんか? 古本で手にした一冊の専門書『図説 城下町都市』(佐藤滋 編著)を開くと、そこには驚くべき分析が記されていました。

1. 21世紀のまちづくりのヒントは「城下町」にある

本書の帯には、こう記されています。

「城下町は優れた美的感性によってつくられた環境一体型の田園都市であった。21世紀のまちづくりのヒントはここにある!」

長野県内で取り上げられているのは、小諸、松本、松代の3か所のみ。小諸が、全国的にも極めてユニークで価値のある都市構造を持っていることがわかります。

2. 「浅間山に向かって羽ばたく鳥」という造形

本書(85ページ)では、小諸の城下町の空間構成について興味深い分析がなされています。 なんと、小諸の街は**「浅間山に向かって羽ばたく鳥をイメージした造形」**として描かれているというのです。

小諸城を起点に、浅間山の雄大な裾野へと広がっていく街の広がりを「翼」に見立てたのでしょうか。当時の設計者たちが、自然景観(浅間山)と都市をいかに一体のものとして捉えていたかが伝わってきます。 (執筆:真野洋介氏、研究:武田光史氏、笠真希氏)

3. 「自律できる都市」へのバトン(土屋様の視点)

編著者の佐藤滋氏は「はじめに」の中で、現代のまちづくりと近世城下町の基盤との整合を図ることの重要性を説いています。

「その基盤(城下町)と現代のまちづくりの整合を図らなければ、地域で自律できる都市は成立しない。」

この言葉は、まさにこれからの小諸を考える私たちへの、時を超えたメッセージのようです。


 

出典・関連情報

  • 『図説 城下町都市』 佐藤滋+城下町都市研究体=編著(鹿島出版会)

  • 2015年には新版も発行されています。Amazonリンク

  • 『図説 城下町都市』旧版表紙

自然災害伝承碑から学ぶ

8月31日。

 

今日は何の日のサイトをみると1947年にキティ台風が関東襲来とのこと。佐久市の旧中込学校に建立されてる復旧記念碑には、戌の満水を彷彿させるものであったこと、が刻されてるとのこと。

 今日は各地域で防災訓練が開催される。身近な石碑などに刻まれた先人の、後世に伝えたいという思いを受け止める日としたい。

 

 

【重要文化財 旧中込学校】旧中込学校にある藤の木の話 | 「旬」の宅配便~佐久っと通信~ https://share.google/ZEJ0YkiEodWLzzOgz

 

File:キティ台風災害復旧紀念碑(佐久市中込).jpg - Wikimedia Commons https://share.google/OcCyFESBTAniJoOjD

 

8月31日 | 今日は何の日 | お役立ち | PHP研究所 https://share.google/nXclpMz4wdtDXc9RQ

島崎藤村の「椰子の実」と兵士

名も知らぬ 遠き島より

流れ寄る 椰子の実一つ

故郷の岸を 離れて

汝はそも 波に幾月

 

島崎藤村は小諸にゆかりのある文豪である。そして藤村の詩「椰子の実」は現在も広く知られている。小諸城址懐古園には、「千曲川旅情の歌」の碑とともに、園内の藤村記念館の前庭に「椰子の実」の詩碑が建立されている。

 昭和四十年代中頃、私の中学生の頃、小諸市民会館の屋上スピーカーから正午のサインメロディとして「椰子の実」のメロディが放送され、四キロメートルほど離れた私の地域でも聞こえてきた。(その放送は、その後市民会館周辺の地区の騒音苦情で取り止められた。)

日本民俗学の創始者柳田国男は愛知県伊良湖岬の浜辺に流れ着いた椰子の実を見つけ、それを基に日本人の祖先が南方から黒潮にのって渡来したという仮説を唱えた『海上の道』を著した。柳田と交流のあった若き日の藤村は、柳田から椰子の実を拾ったエピソードを聞き、漂白している自分と、海を流れてきた椰子の実とを重ね合わせて「椰子の実」を作ったと言われている。(藤村は人生を旅になぞらえていた。旅は旅行と異なり、比較的長期で、行く先が決まっておらず、元のところに帰るとはかぎらない。)

この詩は、昭和十一年に大中寅二により曲がつけられNHKラジオ番組の「国民歌謡」で放送され、広く国民に知られ歌われるようになったとのことである。

私がこの詩に再び接したのはずいぶん前に福井敏晴の『終戦のローレライ』を読んだときだ。このなかで、潜水艦に乗り組む兵士たちの望郷の思いの象徴として、作品の中に繰り返し書かれていた。(残念ながら同名の映画ではまったく触れられていなかった。)

 その後、玉砕の島サイパンでの実話に基づいた映画「太平洋の奇跡」の終わりの場面で、「椰子の実」の曲が流れ、日本へ帰ろうという思いが表現されていた。また、今年読んだ室積光のエンターテインメント『史上最強の内閣』でも最後の最後にこの詩が謎解きの答えとして出て来て驚いた。さらに直近ではNHKの令和7年度上期の朝ドラ「あんぱん」で歌われている場面があり、社会が戦争へ向かうことを暗示させた。

 調べてみると、「椰子の実」は他にも多くのドラマ等で使われていたことが分かった。

 藤村の「椰子の実」は、藤村自身の漂泊の悲しみを表現したロマンチックな詩だったが、戦争で故郷を遠く離れた太平洋の島々で戦う兵士たちにとっては故郷や家族を思う愁の歌として歌われたようだ。

 太平洋戦争末期、戦死した兵士山之内さんが故郷の戦友に宛ててフィリピンの海に放った椰子の実が三十一年かけて故郷の島根県出雲市の海岸にたどり着き最終的に山之内さんの妻の手に届いたという実話もある。この椰子の実は靖国神社の遊就館に展示されたとのことだが、この展示をみて感銘を受けた自身も島根県に縁のある愛知県在住の亀山さんが、子どもたちが戦争の悲惨さや家族の尊さを学ぶきっかけとなるようにと絵本「きせきのやしのみ」としても出版していて、絵本は島根県の雲南市と出雲市の全小中学校に配られたと報じられている。

 藤村は昭和十八年八月に亡くなっているが、明治三十三年に「椰子の実」を発表してから自分の詩に曲がつけられ、戦地の兵士が望郷の念を抱いて歌ったこと、そしてその後も今に至るまで、戦争体験と結びつけられて使われていることについて、どう思うだろうか。歌は世間に出たら、作者の意図から離れて、それを歌う人の感情を載せてそれ自身が生きていくということの不思議さを感じる。

 

2025年8月22日追記

太平洋戦争中、広島の路面電車を運転していた女学生も椰子の実を歌っていたとのこと。

youtu.be

 

やはり田舎暮らしが一番

下水道管の劣化による事故は全国で発生してるが、今回の埼玉での事故は大きい。上水道、下水道、電力など規模の経済・メリットは有るが災害時は規模の不経済の方が大きい。不便でも小規模分散の方が復旧も早い。
やはり田舎で田畑を耕し、薪で暖をとる暮らしが一番だと思う。